なでがたな学び

大学生の、読書やプログラミングを中心とした雑記です。

「『限りなく透明に近いブルー』の解説」の一文

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2009/04/15
  • メディア: ペーパーバック

村上龍さんの、『限りなく透明に近いブルー』を読んだ。米軍基地の街で過ごす青年たちのドラッグとセックスに浸かっている生活を描いた小説だ。ページをめくるたびに生々しい音や匂いを感じる。あまりいい例ではないが、主人公たちが吐くシーン(それもけっこうある)でそのシーンが想像できてしまうがゆえに自分も吐きそうになる。

漫画や小説、映画などで好きなものは「爽快感」があるものだから、このような爽快感と逆の感覚の、生々しさを感じるのはかなり久しぶりだった。(漫画『ベルセルク』で吐きそうになったぶり。ちなみに途中の「蝕」という有名なシーンでリタイア)


小説は月に3冊程度と、まあぼちぼち読んでいる。しかし、いわゆる「読み方」のようなものはわかっていない。いつかはかっこよく考察をくわえてみたいなと夢見るものの、毎度なにも考えずに読んでしまう。だから、この本にも考察のようなものを加えるつもりもないのだが、文庫の最後についてた綿矢りささんの解説にある一文に、ふと惹かれてしまった。その文と接点をもっておきたいのでここでとりあげる。


でも十九歳のころはもう子どもじゃないし。世界がどんなものかを知るために隠されている暗部も知りたかったから、わざわざ血と暴力の世界にアクセスして直視した。見るだけなら危険は及ばないからと。本や映画やインターネットで鑑賞し、見た瞬間には鳥肌が立つけれど夜にうなされることもなかったので、大丈夫だと思いたくさん吸収した。おかしくなってきたのは、それらを見ることに慣れてきたころかだ。知らない間に積み重なってゆっくり身体を侵食していたのだろう、あるとき日常生活の風雨系がまったく違うものに見えるようになった。一部の悪意だったはずのものが町全体に毒ガスのように降り注いで雑踏の人々の表情も、高級品を売る店も飲食店もすべて薄汚く裏のあるものに見えた。そしてその見方はまるで眼全体が汚れてしまったかのように、なかなか拭い去ることはできなかった。見てしまった代償を払う日々が始まった。再び元の世界に戻るためには、もう一度世界の美しさを信じるしか方法がない。


一度、いわゆる「すごい人(社会的な成功を収めている人)」の講演のようなものを聞き、その話のスケールのでかさに「この人めっちゃすごいんだな」と純粋におもったことがある。しかし、あとからわかったことだが、その人は嘘をついていた。語っていた経歴は本当のことではなかった。

そのときから、すごい経歴を持った方、社会的な成功を収めている方に対して、一瞬「本当のことを言っているのかな?」と疑う習慣がついてしまった。


もちろん、すべてを真にうけてしまい、だまされ搾取されることは避けたい。だからあの経験から得た習慣は大事なものだと思う。でも、まさにその「代償」として、少し社会がよごれてみえるようになってしまった。嘘をついているように見えることが増えてしまった。


再び元の世界に戻るためには、もう一度世界の美しさを信じるしか方法がない。


そうだ。こういうことなんだ。

先ほどのべたように、身を守るための健全な疑いは必要だ。しかし、それでもぼくは、世界が美しいと信じたい。「こんな腐った世界で」と晴れない霧を身の内にかかえるよりも、「すばらしい世界で」と生きていることへの純粋な喜びを感じれるようになりたい。だってそっちのほうが、毎日が楽しそうだから。