なでがたな学び

大学生の、読書やプログラミングを中心とした雑記です。

言葉の可能性を痛感する|レーモン・クノー『文体練習』

レーモン・クノーの『文体練習』を読んだ。

この本では、同じ出来事を99通りの方法で書く、という試みがされている。これを実践してみようと思ったのもすごいが、何より読んでいて飽きないのがすごい。もう一度言うが、「全て同じ内容を伝えている」のだ。しかも別段おもしろい出来事でもない。

混雑するバスにのったら、変な帽子をかぶった首の長い若者がいて、他の乗客にへっぴり腰で文句をいっていた。またその2時間後に、その若者が友人に「コートにボタンをつけたら」と提案されているところを駅前でみかけた。

これだけの出来事である。そしてこの出来事を99回繰り返す。 ほんとうにこんな本が面白いのだろうか?


それが、めちゃくちゃ面白い。気づいたらすぐ読み終えていた。


あるときはくどくど説明するのに、あるときはすぐ説明が終わる。話しての視点が変化し、なまりが入り、詩になって、ときどきナンセンスな文になる。
ついつい、その言葉の多様さに、おっ、と唸ってしまう。


例えば、「3・控え目に」や、「5・遡行」はシンプルな表現の変え方ではあるが、印象がガラッと変わるのがわかる。(比較のために「1・メモ」を載せる)

1・メモ

 S系統のバスのなか、混雑する時間。ソフト帽をかぶった二十六歳ぐらいの男、帽子にはリボンの代わりに編んだ紐を巻いている。首は引き伸ばされたようにひょろ長い。客が乗り降りする。その男は隣に立っている乗客に腹を立てる。誰かが横を通るたびに乱暴に押してくる、と言って咎める。辛辣な声を出そうとしているが、めそめそした口調。席があいたのを見て、あわて座りに行く。

 二時間後、サン=ラザール駅前のローマ広場で、その男をまた見かける。連れの男が彼に、「きみのコートには、もうひとつボタンを付けたほうがいいな」と言っている。ボタンを付けるべき場所(襟のあいた部分)を教え、その理由を説明する。

3・控え目に

 わたくしたちは、いっしょに移動しておりました。すばらしい知性に恵まれているとは言い切れないひとりの青年が、近くにいた紳士としばらく会話を交わし、それから席に着きました。二時間ほど後に、わたくしはその青年をふたたび見かけました。お友達と身だしなみについて語り合っておりました。

5・遡行

 もうひとつボタンを付けたほうがいいな、きみのコートには、と連れの男が彼に言った。その場面が目にとまったのはローマ広場でのことだったが、それより前にわたしは、あいた座席に腰掛けようと夢中で突進する彼の姿を見たことがあった。そのとき彼は隣の男に向かって、押すな、と文句を言ったところだった。というのも、停留所で誰かが降りるたびにからだを押されていたらしいのだ。この痩せこけた若い男は、見るからに滑稽な帽子をかぶっていた。それは満員のS系統のバスの後部デッキでの出来事。その日の正午のことだった。

シンプルな表現の変え方であるのに、これまで全くその変化について意識できていなかった。小説などでも、作者によるたくさんの工夫があったはずなのに、僕はずっと見逃してしまっていた。

このように、本書を読み終えた後、(訳者も述べているように)自分が日頃つかっている言葉が、どれだけ薄っぺらく、あまり考えずに選ばれたものかを痛感させられる。


それにしても、どうやったらこんな本が書けるのだろう。レーモン・クノーとはどのような人なのか。 巻末に訳者によるクノーの説明がのっていたので、少し見てみる。


レーモン・クノー(1903 ~ 1976)は、フランスに生まれ、パリ大学で哲学を修めたが、早くから文学に関心を寄せた。はじめは人に知られることの少ない作家だったが、1949年に彼の詩「きみが想像するなら」がジュリエット・グレコの歌うシャンソンによって大ヒットとなり、さらに1960年には小説『地下鉄のザジ』がルイ・マル監督によって映画化され、一般にも有名となった。

文学のことばと日常のことばとが現代では乖離してしまっていることを強く意識していたクノーは、詩でも小説でも民衆のなまえの口調を取り入れるなどさまざまなことばの実験をおこなって、活力ある新しい文学作品を生み出そうとした。そうした実験的活動は、彼を中心にして結成された「ウリポ」の活動にも見られる。しかし、クノー自身は、ウリポの開祖のような位置にいながら、実際の作品においては徹底的な言語実験をおこなってはいない。形式的な厳密さを追求しつつも、つねに規則から外れた部分、遊びと即興に委ねられたところをどこかに残し、厳密さそれ自体をもパロディー化して楽しんでいるところがある。


なるほど。
最後の部分は、浅田彰さんの「シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。」という言葉を思い起こす。

クノーも、実験的な姿勢の上で、それに没頭しつつも一歩俯瞰してみるというような、「境界線上」でうまく舵をとることによって、創造性を発揮してきたのだろう。クノーの文学作品はまだ読んだことがないが、ぜひ読んでみたい。


ここまでは、著者のクノーについて述べたが、この本は訳者もすごい。フランス語と日本語の文法などの違いから、翻訳不可能なものもあったらしいのだが、それでもその表現規則を日本語にうまく適用している。解説に、訳者(朝比奈弘治さん)が、翻訳を通して気づいた、日本語について書いた文に興味を惹かれたので取り上げたい。


「70・英語かぶれ」(むりやり英語の言葉を日本語の文にとりいれるというもの。ルー大柴さんみたいな感じの文体)の補足にて

 フランス語のなかに英単語を取り込む場合、活用や語形変化の違いから始まって、語順の問題や性の区別、発音とスペルの関係など、さまざまな困難がある。外来語の導入はフランス語本来の文法や正書法の「乱れ」をも引き起こしかねない。

 ところが日本語の場合は、単語に関するかぎり外来語を取り入れるのは簡単なことだ。名詞には助詞をくっつけ、動詞なら「…する」、形容詞なら「…な」といった形にすれば、語順の問題も語形変化の問題も解決してしまう。(中略)このようにして、日本語は、みずからの文法体系や発音体系を根本的に崩すことなく、あらゆる外国語の単語をいくらでも自由に取り込んできたわけだ。この安易であると同時に素晴らしく柔軟な言語構造(および表記システム)が、歴史的に見ていかに外国文化の摂取に役立ったか、同時にそうした摂取が良くも悪くもいかに表層的なところに止まらざるを得ず、かつ止まることを可能にしてくれたか、といったことがホンヤクなどをやっていると、しみじみとわかる。


ほおお。この、日本語という「柔軟な言語構造」というところが、とても面白い。

たしか、松岡正剛さんの『日本という方法』に「中国語と中国文学を導入したのに、そのコードをそのまま使って、モードは日本独自のものを生かしてしまっている。つまり、外来コードを使って、内在モードを作り出す方法を、日本は持っている」とあった(はず)。
日本語は、その成立からして柔軟だったからこそ、他の言語を柔軟に取り入れることができるのだろう。


やはり、言葉や文章を知ることは面白い。何よりも、自分の思考や表現そのものへの疑問をぶつけられることで、あっそれは気づかなかったな、という無意識の行動や癖を省みれるので楽しい。
言葉や文章に関して、いつかはもっと勉強したいとおもいつつ、まったく手を出せていない。鉄は熱いうちに打て、だ。勉強するならいまなのかもしれない。


*あとがき:

今回も、松岡正剛さんの千夜千冊にてこの本に出会い、学びを深めてもらった。(一方的にですが)ありがとうございます。

1000ya.isis.ne.jp

また、この本ではいくつかの方法によって文章をナンセンスに変えてしまう。という試みもやっていた。この、意味を解体してしまうというのは、本を読んでいて何度か出てくる哲学的問題だった気もする(?)。とても面白い部分だと思うので、色々な本を経由し、そういう側面からもこの本を楽しめるようになりたい。