なでがたな学び

大学生の、読書やプログラミングを中心とした雑記です。

パースのアブダクションとは何か?|米盛裕二『アブダクション』


米盛裕二さんの『アブダクション』を読んだ。パースのアブダクションの考え方はとても刺激的で、読んでいて楽しい。特に「どのように人は考えるのか」や「創造性ってなにか?」のような疑問を抱いている人、さらには人工知能と人間の知能の違いなどに興味がある人は、アブダクションはかなり面白いと思う。なので、今回はそのような人に対して、アブダクションをちょっと紹介させてほしい。



アブダクションとは何か

アブダクションは、アメリカの論理学者・科学哲学者(その他多数の分野に関わった)チャールズ・パース(1839 ~ 1914)によって、演繹・帰納と並ぶ思考の様式として提唱された。アブダクションとだけでなく、リトロダクションと呼ばれたり、単に仮説とも呼ばれたりする。


パースの論理学は、これまでの〈論証の論理学〉と比較し、〈発見の論理学〉と呼ばれる。その大きな成果がまさにアブダクションであり、これによってパースは〈発見〉の形式化を試みた。発見の形式、つまりアブダクションは、次のようなものになる。


驚くべき事実 C が観察される。

しかしもし H が真であれば、C は当然の事柄であろう。


よって、H が真であると考えるべき理由がある。


急に出てきてなんのことやらと思うかもしれないが、アブダクションはこの形式自体であるため、これを説明することを通して、アブダクションとは何か、従来の考え方とはどう違うのか、などなどを調べてみよう。



アブダクションは推論の一種

推論とは、「いくつかの前提(既知のもの)から、ある結論(未知のもの)を導き出す際の、導出の形式・規則」のことをさす。なのでたとえば、頭が痛いときに「夜中クーラーつけっぱなしにしたからかな」と原因を考えるのも推論だし、探偵が「あなたが犯人だ!」というのもの推論だし、「ファミマにジャンプ売ってるでしょ」と期待するのも推論 といえるだろう。アブダクションはこの推論の一種だ。


また、この推論もおおきく二つに分類される。それは〈分析的推論〉と〈拡張的推論〉である。そして、いわゆる演繹法は分析的推論に、そして帰納アブダクションは拡張的推論に含まれる。


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アブダクション』P.30


だから、アブダクションを理解するには、まず分析的推論と拡張的推論の違い、そして拡張的推論の中の帰納アブダクションの違いをおさえていくとよさそうだ。



分析的推論と拡張的推論の違い

分析的推論と拡張的推論の違いは、結論が前提以上の内容を含むかどうかにある。  そのことをを説明するために、演繹の形式を実際にみてみよう。


すべてのコンビニは24時間営業だ。

ローソンはコンビニだ。


ゆえに、ローソンは24時間営業だ。

*区切り線の上ふたつが〈前提〉、最後の文が〈結論〉


前提を「すべてのコンビニは24時間営業だ、そしてローソンはコンビニだ」とすると、すべてのコンビニにはローソンがすでに含まれているはずなので、「ローソンは24時間営業だ」という結論は、その前提の中にすでに含まれることがわかる。さらにいえば、コンビニにも24時間やっていないところはあるので、前提が真であるかどうかは、演繹的推論の形式の正しさには影響がない。


この例からもわかるように、分析的推論の結論は、前提から必然的に導かれるものであり、前提以上の内容を含まないといえる。


これに対し、拡張的推論の結論は前提以上の内容を含むことになる。 例えば帰納的推論では、これまでみてきた犬A、犬B、犬Cがどれも吠えていたので、「すべての犬は吠える」というふうに一般化する。これは「これまでみてきた犬」という限定された数の事実から、「他の犬も吠えるよね!」もしくは「犬Dも犬Eも犬Fも…吠えるよね!」という、未知の現象を含む結論にまで拡張していることになる。つまり、拡張的推論の結論は、前提以上の内容を含むといえる。



帰納的推論とアブダクションの違い

では次に、拡張的推論のふたつ、帰納的推論とアブダクションの違いについてみてみよう。 ニュートンは木からりんごが落ちたところをみて万有引力の存在をおもいついた、というのは超有名なエピソードであるが、これはアブダクションによる仮説立案の好例だ。


「木からりんごが落ちる」という前提から、「りんごには万有引力がはたらいている」という結論へは、かなりの飛躍が起きており、結論は前提以上の内容を含んでいる。このことから、これは拡張的推論といえるのはわかる。しかし、これがアブダクションだと言えるのはなぜだろう。


この違いを知るために、「木からりんごが落ちる」から帰納的にある結論を推論してみよう。 帰納的推論とは一般化を行うものであるから、


木からりんごが落ちる。

持っているりんごから手を離すと、りんごは落ちる。

りんごが転がり、机からはみ出て落ちる。

...


りんごは支えをなくすと落ちる。


(前提を付け加えているが)帰納的に考えると、このような結論が導かれる。りんご以外の物体にも言及したとしても、せいぜい「すべての物体は地球(地面)に向かって落ちる」という結論になるだろう。すなわち、「木からりんごが落ちる」に対して「万有引力が働いている」という仮説は帰納的な推論以上に拡張的な結論といえ、帰納の一般化する推論では導かれない。


ここで改めてアブダクションの形式を思い出してみると、ニュートンの発想はこの形式に沿っていることがわかる。


驚くべき事実 C が観察される。

しかしもし H が真であれば、C は当然の事柄であろう。


よって、H が真であると考えるべき理由がある。


C に「りんごが木から落ちる」、H に「物体には万有引力が働く」を当てはめると、


「りんごが木から落ちる」という驚くべき事実が観察される。

しかしもし「物体には万有引力が働く」が真であれば、(りんごは物体なのだから)「りんごが木から落ちる」は当然の事柄であろう。


よって、「物体には万有引力が働く」が真であると考えるべき理由がある。


このように、「りんごが木から落ちる」という何気ない現象を〈驚くべき事実〉として認識し、ではその事実はなぜ起こったのか?原因は何か?を考えること、そしてその上でそれが成り立つのが必然といえうる〈仮説〉を提案する。これがアブダクションである。 また、アブダクション帰納に比べて、ある事実に対しての原因追求、説明を求める要素が強いため、形式の H は〈説明仮説〉と呼ばれたりする。


したがって、アブダクションの結論は、帰納的推論のそれに比べてかなり拡張的だといえる。しかも、どのように「拡張的」だといえるかを考えると、その差には〈観察可能性〉という言葉がみえてくるだろう。すなわち、帰納的推論は、前提から一般化という拡張を行うもので観察可能な対象を扱う推論。アブダクションは、事実の裏にある原因や説明を求めるもので「直接観察したものとは違う対象、そしてしばしば直接には観察不可能な対象」を扱う推論である。帰納的推論とアブダクションの違いはここにある。



科学的探究の三つの段階

三つの推論の違いを述べたところで、次はそれら推論をいかに用いて探究を進めていくかを説明していこう。 先ほどは「仮説の立案」の部分を見てきた。しかし、あくまでそれは探究の一部分であり、他にも、立てた仮説があっているかどうか「検証する」という行為も必要になってくる。なのでここからは、立案と検証を含めた〈探究〉の進め方について見ていく。


補足だが、ここでいう〈探究〉は基本的に〈科学的探究〉をさす。これは、科学がパースの思想に大きく影響を与えているためである。 パースは幼少期から、科学に対する熱意を持っており、子供ながらにして自分の実験部屋を大学教授の父親からもらっていたらしい。それもあってか、パースの思想には、アブダクションに関わるもの以外でも、かなり科学実験や科学的合理性の考えがみられることが多い。



海王星発見の例

まず、探究の過程について、よく引き合いに出される海王星発見の例でイメージをつかんでみよう。 海王星を理論的に予言したのはイギリスのアダムスと、フランスのルベリエで、彼らは天王星の位置を計算したところ、すでに知られている惑星を考慮するだけでは実測値に合わないことをしった。ではそれがなぜなのかを考え、天王星の軌道に影響を与えている未知の天体(海王星)の存在を仮定した。しかも、未知の天体の軌道と質量を計算でも求め、ベルリン天文台のガレが予測された位置を観測してみたところ、ほとんど予言通りの位置に海王星が発見された。


この発見の過程を順序だてて整理すると、次のようになる。

  1. アダムスとルベリエが当時天文学者たちの間で問題になっていた「天王星の異常な運動」という〈驚くべき事実 C〉への着目。探究を開始。
  2. 色々な可能性を吟味した上で、天王星の外側に未知の天体が存在するのではないかという〈説明仮説 H〉を選定・提案。
  3. この仮説が真だとしたら、未知の天体の軌道要素は必然的にどのようなものでなくてはならないかを計算で求め、未知の天体の位置を予測。
  4. ガレが、その予測に従って観測した結果海王星が発見される。


ここで、1と2はアブダクション、3は演繹的推論、4は帰納的推論である。 すなわち科学的探究は、第一段階にアブダクション、第二段階に演繹的推論、第三段階に帰納的推論という、三段階で進められることがわかる。


この段階を図式化したものを松岡正剛さんの千夜千冊から引用する。


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1566夜『アブダクション』米森裕二|千夜千冊


このようにパースは、これまで演繹法帰納法を中心としていた論理学に対して、アブダクション(仮説形成)を第一段階に持ってきて演繹法帰納法をそれに続くものとする新しい論理学を提唱している。しかも、探究では、三つの推論どれもが大切であるものの、アブダクションにおける仮説形成が何よりも重要になっている。実際、未知の天体があるという仮説を立てていなければ、何を観察するべきかの予測も立たず、やみくもに観察することになっていただろうし、そうすれば膨大な量の情報に事実は隠されていただろう。



あとがき

ここで説明したように、アブダクションは探究において重要な推論である。この仮説を形成するという、閃きや創造的飛躍が、人間の知能と人工知能を隔てる推論であるともいえそうだ。今後もパースについてや、その後のプラグマティズムや、論理学、記号学について勉強していきたいと思っているので、適宜紹介していきたい。



参考資料

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』をより理解するための事前準備

…ついに、ついに読みました、ホフスタッター著の『ゲーデルエッシャー、バッハ』。数学ガールを記した結城浩先生が「何度も繰り返し読んでいる本」として挙げており*1ピューリッツァー賞(なにやらすごそうな賞)も受賞している本書。大学にはいってからはや4年、これまでぼちぼちと本を読んできましたが、これだけ(物理的にも内容的にも)厚く重い本を読んだのははじめてでした。かなり難しく、まだまだ理解できてない部分はあるものの、一方で「わりと読めたのでは!」とかなんとか思えたりもしています。本書『ゲーデルエッシャー、バッハ』(以下「GEB」と略します)を読む前に、たまたまそうなったものも含め、何冊か事前準備としての読書を積んできたのが功をそうしたのかなと感じます。


ということでここでは、事前に読んでよかったなという本だったり、逆にこういうところを勉強していればもっと理解できた&楽しめたのではという本を紹介していきます。


GEBの紹介から

と、その前にまず肝心の本の内容をちょっと紹介します。

タイトルにもあるように、本書は不完全性定理を提唱した数学家ゲーデル、騙し絵で有名な画家エッシャー、音楽の父バッハ、彼ら3人に共通する《不思議の環》現象を見出していく、そういった内容になっています。この《不思議の環》とは、「ある階層システムの段階を上へ(あるいは下へ)移動することによって意外にも出発点に帰っている」(P. 26)という不思議な現象のことを指します。AからBが生み出され、BからAが生み出される。そのように高次元のレイヤーと低次元のレイヤーが混ざり、階層がもつれ、あたかも奇跡のようなもの(例えば生命など)が生まれる。こうしたもののことです。

本書はさらに、この現象を分子生物学にも見出したり、人工知能の議論にも応用したりと、縦横無尽に話を展開していきます。それだけでなく、途中で禅の思想が出たり、ルイス・キャロルの物語をモチーフとした対話編が差し込まれていたりと、本の中で出てくる話の幅がもっのすごく広い。読み応えしかありません。


読んでよかった本


この本はGEBを読むきっかけともなった結城浩先生による、不完全性定理にかんする本です。最初から不完全性定理について触れるのではなく、「ペアノの公理」や「カントール対角線論法」など、定理に用いられている重要な論証をひとつずつ学んでいく形式になっています。不完全性定理に関するはじめての本だったこともあり、正直終盤の議論についていくのが難しくはありましたが、それでも説明は抜群にわかりやすく、定理に挑むためのいい事前準備になりました。はじめて不完全性定理にふれる人や、数学が苦手だと感じている人は、ぜひ読んでみてください。


これも結城浩先生が「大学生の数学を勉強する土台として」と、強くおすすめされていた参考書だったため、読んでみました。不完全性定理自体は他の数学分野に比べて、事前に必要とされる知識が少なく、だからこそプロ・アマチュア問わずいろんな人を魅了しています。といっても、数理論理学のそもそもの基礎を知っていなければ不完全性定理についていくのが難しいのも事実で(というか知っててもわからない部分ばかり)、量化子など、数理論理学特有の文字やその使い方を知っていないと、呪文にしかみえません。この本は、その数理論理学の基礎となる部分を丁寧に書いてくれているので、これを読んでおくと自信をもって読み進めていくことができます。


ゲーデル不完全性定理を足掛かりとしつつ、チューリングの停止問題にも踏み込んでいく、自動定理証明にまつわる議論がされています(以前軽い感想を書きました*2)。GEB後半でも、チューリングやタルスキなど、コンピュータプログラムに関する話題が多く出てきます。そうした時に、この本に書いてあるゲーデル以後の数学史を少し知っておくと、読みやすくなるのではないかなと思います。(ただ、なんとも難しく、正直あまり理解できておりません…。もしかしたらこちらを後にしたほうがいいかもしれません)


「人間の意識はいつ生まれるのか?」という問いに対して、《統合情報理論》という仮説をぶつけていくという本です。統合情報理論とは、人間の意識は、各器官から得られる豊富な情報量とその相互作用による複雑性、そしてそれらの統合のバランスが高度になっているために生まれるという理論のこと。GEBでも、ニューロンと意識という、低次元ー高次元の関係性を、《不思議の環》現象と対応させながら考えていきます。この際に、脳の構造について、ちょっとでも知識があると該当箇所が読みやすくなります。ただ、脳の構造について説明してくれている本ならより詳しいものが他にあったのではないかなと思います。GEBと関係なくただただ面白かったのと、ぼくが読んだ脳科学関係の本がこれしかなかったので挙げていますが、この本で事前準備を行う必要性は低そうです。


コンピュータの構造を、0と1のバイナリーなど根本にある部分から説明してくれる本で、少し古めの本ではありますがかなり読みやすいです。コンピュータの構造は、低次元ー高次元までの階層関係が抽象化されており、各レイヤーがあたかも独立しているかのように動いています。例えば、WindowsのパソコンでもMacでも動くプログラムがある、みたいなことです。GEBでは、この独立的な階層関係に焦点が当てられ、脳の構造との比較などがなされます。この『思考する機械 コンピュータ』でも、まさにそのことをコンピュータの本質として挙げているので、なおGEBの事前準備として活かせるのではないかなと思います。


簡単な紹介でも述べましたが、GEBでは分子生物学(遺伝子とかタンパク質とか)の話題が出てきます。基礎的な部分は説明してくれているものの、少しでも知っておくと理解しやすいです。特に、「タンパク質の立体特異性による三次元構造化」にまつわる議論などは、この『偶然と必然』という本に詳しいです。著者も述べているように、この本から影響を受けたとみられる箇所がいくつかあります。(一度まとめと感想を投稿したので、より詳しくはそちらをどうぞ*3


初学者向けの人工知能に関する本です。人工知能のブームが大きく3回に分かれているのですが、各タイミングでどのような研究が進み、何につまづいたのか、などを時系列に沿って詳しく説明してくれています。GEBは序盤〜後半直前まで、主なトピックはゲーデル不完全性定理なのですが、終盤はもっぱら人工知能に関する話題になっていきます。


事前に学んでおきたかったもの

バッハの音楽

本書のメインの一人であるにもかかわらず、ぼくはまったく音楽の素養がないため理解できない部分や想像できない部分がかなりありました。特にバッハの曲をモチーフにした対話編などが多いのですが、それらのすごさや面白さがあまりわからず、まさに本書の3分の1だけ楽しめなかったように感じます。


禅の思想

本書中間あたりで、禅問答が大きく取り上げられます。そこで禅の思想と、不完全性定理とか結びつけられるのですが、禅の思想はそれ自体難解なものなのであまり理解できない部分がありました。鈴木大拙氏の本を読んだときにでも、禅の思想にふれておけばよかったなぁと少し後悔しています(一冊読んでおわりになってしまっていたので)。


数学史

本書では、ゲーデルの不完全定理など数学にまつわる議論が多くを占めています。これまで数学という学問に、特に数学の歴史などにはほとんど触れてこなかったのではじめて聞く名前がかなり多かったです。不完全性定理も、その数学の歴史文脈上に位置付けることでさらに理解しやすくなると感じました。


人工知能に関する議論

先ほど一冊あげたものの、まだまだ知らないことがかなりあるなと痛感しました。さらには、GEBが発売されてから40年以上たった今、もっと進められた議論を踏まえた上で、GEBでの人工知能に関する主張を捉え直したいです。


あとがき

本書の特徴は、各テーマ間の同型対応にあると感じます。全然関係なさそうな独立した学問がつながり、さらには音楽とも、絵画ともつながる。この本を読み進めていくと、ミステリー小説の伏線が回収されていくような、そんな爽快感もかんじられます。各テーマに関する知識を事前に準備しておけば、そのつながりをより楽しめるのではないかなと感じます。ぼく自身、より『ゲーデルエッシャー、バッハ』を楽しめるようにこれからの読書も進めていきたいです。

言葉の可能性を痛感する|レーモン・クノー『文体練習』

レーモン・クノーの『文体練習』を読んだ。

この本では、同じ出来事を99通りの方法で書く、という試みがされている。これを実践してみようと思ったのもすごいが、何より読んでいて飽きないのがすごい。もう一度言うが、「全て同じ内容を伝えている」のだ。しかも別段おもしろい出来事でもない。

混雑するバスにのったら、変な帽子をかぶった首の長い若者がいて、他の乗客にへっぴり腰で文句をいっていた。またその2時間後に、その若者が友人に「コートにボタンをつけたら」と提案されているところを駅前でみかけた。

これだけの出来事である。そしてこの出来事を99回繰り返す。 ほんとうにこんな本が面白いのだろうか?


それが、めちゃくちゃ面白い。気づいたらすぐ読み終えていた。


あるときはくどくど説明するのに、あるときはすぐ説明が終わる。話しての視点が変化し、なまりが入り、詩になって、ときどきナンセンスな文になる。
ついつい、その言葉の多様さに、おっ、と唸ってしまう。


例えば、「3・控え目に」や、「5・遡行」はシンプルな表現の変え方ではあるが、印象がガラッと変わるのがわかる。(比較のために「1・メモ」を載せる)

1・メモ

 S系統のバスのなか、混雑する時間。ソフト帽をかぶった二十六歳ぐらいの男、帽子にはリボンの代わりに編んだ紐を巻いている。首は引き伸ばされたようにひょろ長い。客が乗り降りする。その男は隣に立っている乗客に腹を立てる。誰かが横を通るたびに乱暴に押してくる、と言って咎める。辛辣な声を出そうとしているが、めそめそした口調。席があいたのを見て、あわて座りに行く。

 二時間後、サン=ラザール駅前のローマ広場で、その男をまた見かける。連れの男が彼に、「きみのコートには、もうひとつボタンを付けたほうがいいな」と言っている。ボタンを付けるべき場所(襟のあいた部分)を教え、その理由を説明する。

3・控え目に

 わたくしたちは、いっしょに移動しておりました。すばらしい知性に恵まれているとは言い切れないひとりの青年が、近くにいた紳士としばらく会話を交わし、それから席に着きました。二時間ほど後に、わたくしはその青年をふたたび見かけました。お友達と身だしなみについて語り合っておりました。

5・遡行

 もうひとつボタンを付けたほうがいいな、きみのコートには、と連れの男が彼に言った。その場面が目にとまったのはローマ広場でのことだったが、それより前にわたしは、あいた座席に腰掛けようと夢中で突進する彼の姿を見たことがあった。そのとき彼は隣の男に向かって、押すな、と文句を言ったところだった。というのも、停留所で誰かが降りるたびにからだを押されていたらしいのだ。この痩せこけた若い男は、見るからに滑稽な帽子をかぶっていた。それは満員のS系統のバスの後部デッキでの出来事。その日の正午のことだった。

シンプルな表現の変え方であるのに、これまで全くその変化について意識できていなかった。小説などでも、作者によるたくさんの工夫があったはずなのに、僕はずっと見逃してしまっていた。

このように、本書を読み終えた後、(訳者も述べているように)自分が日頃つかっている言葉が、どれだけ薄っぺらく、あまり考えずに選ばれたものかを痛感させられる。


それにしても、どうやったらこんな本が書けるのだろう。レーモン・クノーとはどのような人なのか。 巻末に訳者によるクノーの説明がのっていたので、少し見てみる。


レーモン・クノー(1903 ~ 1976)は、フランスに生まれ、パリ大学で哲学を修めたが、早くから文学に関心を寄せた。はじめは人に知られることの少ない作家だったが、1949年に彼の詩「きみが想像するなら」がジュリエット・グレコの歌うシャンソンによって大ヒットとなり、さらに1960年には小説『地下鉄のザジ』がルイ・マル監督によって映画化され、一般にも有名となった。

文学のことばと日常のことばとが現代では乖離してしまっていることを強く意識していたクノーは、詩でも小説でも民衆のなまえの口調を取り入れるなどさまざまなことばの実験をおこなって、活力ある新しい文学作品を生み出そうとした。そうした実験的活動は、彼を中心にして結成された「ウリポ」の活動にも見られる。しかし、クノー自身は、ウリポの開祖のような位置にいながら、実際の作品においては徹底的な言語実験をおこなってはいない。形式的な厳密さを追求しつつも、つねに規則から外れた部分、遊びと即興に委ねられたところをどこかに残し、厳密さそれ自体をもパロディー化して楽しんでいるところがある。


なるほど。
最後の部分は、浅田彰さんの「シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。」という言葉を思い起こす。

クノーも、実験的な姿勢の上で、それに没頭しつつも一歩俯瞰してみるというような、「境界線上」でうまく舵をとることによって、創造性を発揮してきたのだろう。クノーの文学作品はまだ読んだことがないが、ぜひ読んでみたい。


ここまでは、著者のクノーについて述べたが、この本は訳者もすごい。フランス語と日本語の文法などの違いから、翻訳不可能なものもあったらしいのだが、それでもその表現規則を日本語にうまく適用している。解説に、訳者(朝比奈弘治さん)が、翻訳を通して気づいた、日本語について書いた文に興味を惹かれたので取り上げたい。


「70・英語かぶれ」(むりやり英語の言葉を日本語の文にとりいれるというもの。ルー大柴さんみたいな感じの文体)の補足にて

 フランス語のなかに英単語を取り込む場合、活用や語形変化の違いから始まって、語順の問題や性の区別、発音とスペルの関係など、さまざまな困難がある。外来語の導入はフランス語本来の文法や正書法の「乱れ」をも引き起こしかねない。

 ところが日本語の場合は、単語に関するかぎり外来語を取り入れるのは簡単なことだ。名詞には助詞をくっつけ、動詞なら「…する」、形容詞なら「…な」といった形にすれば、語順の問題も語形変化の問題も解決してしまう。(中略)このようにして、日本語は、みずからの文法体系や発音体系を根本的に崩すことなく、あらゆる外国語の単語をいくらでも自由に取り込んできたわけだ。この安易であると同時に素晴らしく柔軟な言語構造(および表記システム)が、歴史的に見ていかに外国文化の摂取に役立ったか、同時にそうした摂取が良くも悪くもいかに表層的なところに止まらざるを得ず、かつ止まることを可能にしてくれたか、といったことがホンヤクなどをやっていると、しみじみとわかる。


ほおお。この、日本語という「柔軟な言語構造」というところが、とても面白い。

たしか、松岡正剛さんの『日本という方法』に「中国語と中国文学を導入したのに、そのコードをそのまま使って、モードは日本独自のものを生かしてしまっている。つまり、外来コードを使って、内在モードを作り出す方法を、日本は持っている」とあった(はず)。
日本語は、その成立からして柔軟だったからこそ、他の言語を柔軟に取り入れることができるのだろう。


やはり、言葉や文章を知ることは面白い。何よりも、自分の思考や表現そのものへの疑問をぶつけられることで、あっそれは気づかなかったな、という無意識の行動や癖を省みれるので楽しい。
言葉や文章に関して、いつかはもっと勉強したいとおもいつつ、まったく手を出せていない。鉄は熱いうちに打て、だ。勉強するならいまなのかもしれない。


*あとがき:

今回も、松岡正剛さんの千夜千冊にてこの本に出会い、学びを深めてもらった。(一方的にですが)ありがとうございます。

1000ya.isis.ne.jp

また、この本ではいくつかの方法によって文章をナンセンスに変えてしまう。という試みもやっていた。この、意味を解体してしまうというのは、本を読んでいて何度か出てくる哲学的問題だった気もする(?)。とても面白い部分だと思うので、色々な本を経由し、そういう側面からもこの本を楽しめるようになりたい。

生命の「複製の不変性」と、エントロピー増大の法則|ジャック・モノー『偶然と必然』


はじめに

いま、ホフスタッターの『ゲーデルエッシャー、バッハ 〜あるいは不思議の環〜』という本と格闘している。名前のとおり、ゲーデルエッシャー・バッハの三者を絡めつつ、彼らに共通する「不思議の環」という自己言及構造について書かれた本だ。最高に刺激的で、読み進めれば進めるほど、自分の読書体験がねじ曲げられていていく。


しかしなんとも難しく、予備知識がないと理解できない部分が大量にある。そうした中で、重要な参考文献としてジャック・モノーの『偶然と必然』をあげていたので、あの本をより理解するためにも読んでみることにした。

一応、『ゲーデルエッシャー、バッハ』より参考文献の欄より、『偶然と必然』に関する補足を引用する。

生命がいかに非生命から構成されたか、進化が熱力学の第二法則を破っているように見えながら、実際にはいかにそれに依存しているかを、豊かな精神の持ち主が特異な仕方で述べる。私は深い感銘を受けた。


ジャック・モノーは、フランスの分子生物学者だ。1965年に、フランソワ・ジャコブとアンドレ・ルボフとともに3人で「酵素とウイルスの合成の遺伝子制御の研究」でノーベル医学生理学賞も受賞している。

著者は、本書で「現代生物学の概念そのものより、結局はその形であり、またそれらの概念と他の思想の領域とのあいだの論理的な関係を明らかにする」と述べている。実際、宗教的な見方や唯物論的な見方による生命感を徹底して批判するなどして、生物学の枠を超え、当時の思想界にも大きな影響をもたらした(らしい)。

実際、宗教的な見方や唯物論的な見方をことあるごとに取り出しては排斥している。特に本書後半ではそれらの見方の対案として「知識の倫理」という考え方を提案しており、それによってこの本を有名なものにしている。 しかしぼくの目的は『ゲーデルエッシャー、バッハ』の理解であるから、そちらに関しては割愛する。


生命を生命たらしめる基準とは

本書は、「生命を生命だと判断する基準は何になるか?」という問いから出発する。私たちが、地球上にいる生命とその他のものを比べて、「これが生命かどうか」を判断するのは簡単だ。しかし、地球外生命体がいるとして、彼らが地球上の生命を正確に判断できるのだろうか。または、彼らが生命を正確に判断するための「基準」はどのようなものになるだろうか?

著者は、この問いに対して「合目的性」と「複製の不変性」という基準を用意する。これは、何かしらの目的を持って存在していることと、ほぼ正確に自分(個体)を複製することである。

この基準は妥当なものにように思う。ほとんどの人はこの基準に対して反対しないのではないだろうか。実際、動物は、種を増やすための生存本能や生殖本能を持ち合わせる。 しかし、時代や論者によっては異なる生命観を持っている。例えば、ダーウィン以前は、人間は神につくられた被造物であり、またその他生命とは一線を画する選ばれた存在であるとしていたし、ダーウィン以後でも、人間を生命の進化の到着点であり最も優れた存在であると考える場合や、人間は自然淘汰によって偶然生じたにすぎず、動物など他の生命体とほとんど同じだと考える場合がある。

著者は、このような生命観の違いは、先ほどあげた基準、「合目的性」と「複製の不変性」のどちらが因果的・時間的に先行しているかという、優先関係に対する考え方の違いに他ならないと指摘する。

つまり、(著者が排斥する)唯物論的な生命観は、「合目的性」が優先であるという考えに他ならない。そして著者は、(排斥してることからもわかるとおり)後者の「複製の不変性」が優先、第一義であると述べる。


マクスウェルの魔物

マクスウェルの魔物(Maxwell's demon)とは、物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが考えた仮想的な思考実験で想定される架空の存在のことである。

ある気体のはいった二つの箱AとBをつなぐ出入り口で魔物が見張り番をしていて、その《魔物》は、分子を識別する「認識能力」を持ち、素早い分子のみをAからBへ、遅い分子のみをBからAに通り抜けさせるように扉を開け閉めできると想定する。すると、エネルギーを消費することなしに、Aの温度を下げ、Bの温度を上げれるのではないか。そしてこれは熱力学第二法則エントロピー増大の法則)に矛盾するのではないか。マクスウェルはこのように考えた。


そして、生命体においても、このような《魔物》がひそんでいるように見える挙動が行われている。例えば、DNAは、アデニンとチミン(A-T)、グアニンとシトシン(G-C)という決まった塩基対を形成する。アデニンをとりあげてみると、アデニンは4種類の中からチミンを正確に識別していることがわかる。ではどうやって?

この識別能力は、タンパク質が、他の分子との結合によって「立体的特異性」をもつ複合体を形成する能力をもつことに支えられる。比喩をつかえば、鍵と鍵穴の対応のようなものだ。鍵穴は、その立体的構造から、対応する鍵を決定している。

そしてこの《魔物》は、生命という高度な化学機械の活動を一定の方向に導き、首尾一貫した機能をもたらす。つまり、ある生物の合目的的な働きや構造はすべて、それがいかなるものであれ、原則として、一個、数個、あるいは非常に多数のタンパク質の立体特異的な相互作用に基づくものである、と著者は主張する。

さらにいえば、任意のタンパク質がその対になるものを識別する能力は、タンパク質の一次元の配列順序のみに規定され、その配列順序はDNAに記されている。言い換えれば、DNAにタンパク質の配列順序を記すだけで、化学機械の活動を操作することができるということだ。(非常に単純化してはいるが)

したがって、DNAという正確な自己複製子、つまり「複製の不変性」の特性によって、合目的性の特性が出現していることがわかる。


エントロピー増大の法則

物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、生命は、エントロピー増大の法則(無秩序へ向かうという法則)に反して秩序を維持していると述べ、そうできるのは「負のエントロピー」を食べているからだ、と言った。

負のエントロピーの概念にあるように、エントロピー増大の法則に矛盾した性格は、生命がもつ基本的な性格であるようにみえ、科学者たちはそれがなぜそうなるかを解明するため努力してきた。生物の進化も同様である。生物は、無秩序への方向を逆走し、より高度な秩序を獲得してきた。

しかし、そもそも、本当に生命は、生物の進化はエントロピー増大の法則に矛盾しているのだろうか?

再度、マクスウェルの魔物を取り上げてみると、この実験は、「エントロピー増大の法則とは矛盾しない」として解明された。魔物が認識能力を行使するとき、必然的に一定量のエネルギーの消費を伴うが、作用全体の帳尻をみると、系全体のエントロピー減少で埋め合わされていることを、証明した。

つまり、生命の秩序の創造も、周辺の化学ポテンシャルの消費という代償を払ってつくり出しているため、系全体でみるとエントロピー増大の法則には矛盾しないのである。

とくに、生物の「進化」はむしろ、エントロピー増大の法則のひとつの表現であるとみなすことができる。なぜなら、生物の進化は「不可逆性」を持つからである。

このことをもう少し補足する。生物の進化は、「突然変異」が必要であり、正確な自己複製だけでは成り立たないことがわかっている。自己複製も、量子力学の影響をうけるために、どうしても常に正確ではありえない。そして、こうした突然変異によって、生物がより多様になり、周辺の自然環境に応じて生存できる個体と、生存できない個体がわかれるという「自然淘汰」が生じることになる。また、こうした淘汰の結果のこった個体は、それ以前(いわゆる祖先)の個体に戻ることはない。

つまり、生物の進化は、時間的に方向を持った不可逆な過程なのである。これは、エントロピー増大の法則の方向と同一である。この時間方向に矛盾する(進まない、もしくは逆方向に進む)のならば、自然淘汰が生じることはなく、従って進化という現象も生じることはない。


おわりに

かなり粗くではあるが、ジャック・モノーの『偶然と必然』をまとめた。


さきほども記載したが、「いかに生命は《秩序》を獲得するのか?」は、生命とは何かを考える上で根本的な問いであるように思う。さらにいえば、その問いの上に、全体が部分の総和以上になっている(=創発している)という全体論的な認識が重なることによって、より謎が深まっているのだろう。

創発現象は、低レベルの素材から、高レベルのシステムを生み出す。極端にいうなら、石が金に変わるような現象なのだ。しかも、どうやって変わるかは、皆目検討もつかない。しかし、石を金に変える研究に没頭した人がいるように、創発現象には強い魅力がある。そしてそれは生命にまつわる話に限らない。

ぼくも、持っている情報が、その総和以上のアウトプットに変換できるような編集力を身につけたいがために、このようにブログを書いている。ただ難しい。というより、自分自身そういっているが、どうなるとそうなるのか、そもそもどういう状況なのか、想像すらできずよくわからない。

そうした中で、本書では、DNAに記載されているタンパク質の配列順序という低レベルの素材から、立体的特異性という特性による識別能力による高度な化学システムが出来上がっていることを示した。これは、創発現象のひとつの例になるのではないだろうか。


やはり、生命や進化を解明しようとする試みは、読んでいておもしろい。ただ、現代の生物学や化学がどうなっているのかを知らないため、この本に記載されていることの正しさを検証できないことが歯がゆく、そもそも基礎知識も浅いため議論についていけないところも結構あった。もう少し知識をつけてから再チャレンジしてみたい。

東野圭吾『容疑者Xの献身』をネタバレありで読んだ感想

容疑者Xの献身 (文春文庫)

容疑者Xの献身 (文春文庫)

東野圭吾さんの『容疑者Xの献身』を読んだ。この本は、ガリレオシリーズ3作目、初の長篇作品で、ファンからも高い評価を得ている。まさに「傑作」というべき本書。散りばめられた伏線と衝撃のトリック。作品への高評価も納得の面白さだった。


間違いなく面白かった。本当に面白かった。


ただ、ただ、、、、、、、 なぜトリックの記憶だけが残っていたんだッッッッッ!


ガリレオシリーズはドラマ化されている。たしか放送当時小学生だったぼくは、家族がみていたそのドラマをなにげな〜くそれらを見ていた。そのため、ガリレオシリーズ1作目『探偵ガリレオ』を読んだ際も、その内容が微かに記憶に残っており、「あ〜突如燃えたやつあったな」とか、「デスマスクのやつみたことある!」のように、懐かしさを感じていた。


本書『容疑者Xの献身』は、ドラマではなく映画だ。ドラマでガリレオをかすかにみていた僕は、たしか金曜ロードショーかなにかで放映されているときに『容疑者Xの献身』もみてみようと思った(らしい)。小学生のぼくはポケモンのダイパか、イナズマイレブンをDSでしながらの、ながらみをしていたため、映画の内容はあまり覚えておらず、みたものの「面白かった」のような感想すらいだかなかった。


しかし、小学生のぼくはやってはいけないことをしていた。トリックが衝撃的だったのか、そこだけ凝視していたらしい…。ほぼ完璧にトリックを知っていた。。(なぜ………)


映画みたなら見たで、そこで『容疑者Xの献身』の面白さに打ちのめされとけよ、と心の底からおもうが、なぜか面白いとかそういう感想を一切いだかずにトリックだけ知っていた。トリックが最後にあばかれるドキドキ感を楽しむミステリーで、まさかのセルフネタバレ。はじめて小学生のときの自分を呪った。


しかし、本書はやはり「傑作」。セルフネタバレをかましていても面白い。ただ謎をといて面白いというわけではなく、登場人物たちの深い愛情と葛藤、痛みと優しさを含んだラスト、ミステリーとしての側面だけでなく、ストーリー全体が本当に面白かった。


つまり、ネタバレありでみてもめちゃくちゃ面白いんだから、ネタバレなしでみたら死ぬほど面白いんだろうな(ウラヤマ)ってこと。

「『限りなく透明に近いブルー』の解説」の一文

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2009/04/15
  • メディア: ペーパーバック

村上龍さんの、『限りなく透明に近いブルー』を読んだ。米軍基地の街で過ごす青年たちのドラッグとセックスに浸かっている生活を描いた小説だ。ページをめくるたびに生々しい音や匂いを感じる。あまりいい例ではないが、主人公たちが吐くシーン(それもけっこうある)でそのシーンが想像できてしまうがゆえに自分も吐きそうになる。

漫画や小説、映画などで好きなものは「爽快感」があるものだから、このような爽快感と逆の感覚の、生々しさを感じるのはかなり久しぶりだった。(漫画『ベルセルク』で吐きそうになったぶり。ちなみに途中の「蝕」という有名なシーンでリタイア)


小説は月に3冊程度と、まあぼちぼち読んでいる。しかし、いわゆる「読み方」のようなものはわかっていない。いつかはかっこよく考察をくわえてみたいなと夢見るものの、毎度なにも考えずに読んでしまう。だから、この本にも考察のようなものを加えるつもりもないのだが、文庫の最後についてた綿矢りささんの解説にある一文に、ふと惹かれてしまった。その文と接点をもっておきたいのでここでとりあげる。


でも十九歳のころはもう子どもじゃないし。世界がどんなものかを知るために隠されている暗部も知りたかったから、わざわざ血と暴力の世界にアクセスして直視した。見るだけなら危険は及ばないからと。本や映画やインターネットで鑑賞し、見た瞬間には鳥肌が立つけれど夜にうなされることもなかったので、大丈夫だと思いたくさん吸収した。おかしくなってきたのは、それらを見ることに慣れてきたころかだ。知らない間に積み重なってゆっくり身体を侵食していたのだろう、あるとき日常生活の風雨系がまったく違うものに見えるようになった。一部の悪意だったはずのものが町全体に毒ガスのように降り注いで雑踏の人々の表情も、高級品を売る店も飲食店もすべて薄汚く裏のあるものに見えた。そしてその見方はまるで眼全体が汚れてしまったかのように、なかなか拭い去ることはできなかった。見てしまった代償を払う日々が始まった。再び元の世界に戻るためには、もう一度世界の美しさを信じるしか方法がない。


一度、いわゆる「すごい人(社会的な成功を収めている人)」の講演のようなものを聞き、その話のスケールのでかさに「この人めっちゃすごいんだな」と純粋におもったことがある。しかし、あとからわかったことだが、その人は嘘をついていた。語っていた経歴は本当のことではなかった。

そのときから、すごい経歴を持った方、社会的な成功を収めている方に対して、一瞬「本当のことを言っているのかな?」と疑う習慣がついてしまった。


もちろん、すべてを真にうけてしまい、だまされ搾取されることは避けたい。だからあの経験から得た習慣は大事なものだと思う。でも、まさにその「代償」として、少し社会がよごれてみえるようになってしまった。嘘をついているように見えることが増えてしまった。


再び元の世界に戻るためには、もう一度世界の美しさを信じるしか方法がない。


そうだ。こういうことなんだ。

先ほどのべたように、身を守るための健全な疑いは必要だ。しかし、それでもぼくは、世界が美しいと信じたい。「こんな腐った世界で」と晴れない霧を身の内にかかえるよりも、「すばらしい世界で」と生きていることへの純粋な喜びを感じれるようになりたい。だってそっちのほうが、毎日が楽しそうだから。

『コンピュータは数学者になれるのか?』照井一成|感想

職種としてエンジニアを選ぶにあたり、コンピュータサイエンスを勉強したい!とおもいたち、色々と調べていると、コンピュータサイエンスの根っこには《 ゲーデル不完全性定理 》など、数学論理学があることを知りました。そんなとき、

math.hyuki.net

このサイトを拝見し、実際に読んでみたところかなり面白い本でした。ただ、数学(特に基礎論)初学者、コンピュータサイエンス初学者の自分にはなかなかにむずかしい本でして、、すぐに忘れてしまわないようにもメモとして感想をかけたらなとおもいます。


本書の流れ

本書の目次

  1. 数学者を作ろう

  2. 対角線上に追い詰めろ

  3. 計算よ停まれ!

  4. NPの壁

  5. 活き活きした証明

  6. 対角線方向にむかう未来

タイトルにもあるとおり、「コンピュータは数学者になれるのか?」という問いを中心として、本書は展開していきます。 またここで重要なこととして、「数学の目的は、単に真理を発見することではなく、それを定理として証明することだ」というふうに、明示的に数学の目的を設定しています。つまり、本著は人工数学者をつくりあげていく本でもありつつ、その背景としての「証明を証明しようとした数学の流れ」を中心とした内容ともいえます。

まず、数学基礎論を用いつつ、その後、カントール集合論対角線論法ヒルベルト計画・ゲーデル不完全性定理にふれ、タルスキの定理・チューリングの停止問題・ゲンツェンの無矛盾性証明、P対NP問題、カリー・ハワード対応へと、つまり「『数学と証明』から『プログラムと証明』へと」展開していきます。


感想

この本を読む前までは「コンピュータサイエンスの裏側には数学論理学があるっぽい!」というかなり曖昧だったイメージは、ゲーデル不完全性定理などから、P対NP問題やカリー・ハワード対応などへと繋がり、実際に数学論理学(基礎論)がどうコンピュータサイエンスへと繋がっているのかを知ることができ、とても読んでよかったです


また、この本に加え、結城浩さんの『数学ガールゲーデル不完全性定理』も読んだのですが、どちらにも共通しているのは、「《 ゲーデル不完全性定理 》はネガティブな意味で解釈されがちだが、ポジティブな面もある!そこを理解するべきだ!」といった信念でした。そこで、ゲーデルだけでなく、無矛盾性の証明を行ったゲンツェンを登場させ、ゲーデル的な限界を認識しつつ、ゲンツェン的に突き進む」ということを主張しています(*ゲンツェン的:できるところまでやってみよう!という下から突き上げる姿勢)。そしてそこには、大きな希望を感じました。


正直、読み応えがありすぎて、解釈しきれていない部分、またここで書ききれていない重要なことがありまくってます。何度も何度も繰り返して読みたい本です。